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のハローワークとは、国際労働機関条約88条に基づき加盟国に設置される公的職業安定組織 (public employment service) が運営する職業紹介所の事。
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ヌミディア
第二次ポエニ戦争では、東の王であるガイア(あるいはガラ)はカルタゴと同盟を結んでハンニバルの遠征軍に騎兵を提供し、共和政ローマと戦った。他方、西のシュファクスは、ローマと同盟を結んでいた。
ところが紀元前206年、東のガイアが没すると、西王国のシュファクスが東を併合した。ガイアの息子であるマシニッサは、カルタゴ領のイベリア半島でローマのスキピオ・アフリカヌスと戦っていたが敗れ、本国を失ったのでスキピオの軍門に降った。これに対して、シュファクスはローマから離反してカルタゴと同盟を結んだ。
紀元前204年、スキピオ率いるローマ軍がカルタゴ本国を攻めるために北アフリカに上陸して、カルタゴ・ヌミディア同盟軍を破り、ヌミディアを制圧した。シュファクスはローマの捕虜となり、マシニッサが統一ヌミディアの王として即位した。ザマの戦いでは、マシニッサはスキピオ麾下ローマ軍の支援軍として右翼の騎兵隊を指揮して、ハンニバルのカルタゴ軍を破ることに貢献した。なおこのとき、マシニッサが撃退したカルタゴ軍左翼もヌミディア騎兵であった。
後世のアッピアノスが伝えるところによれば、マシニッサが没した紀元前148年には、彼の領土は西隣はマウレタニア、東隣はカルタゴ、さらに東端はキュレナイカにまで達したという。すなわち、カルタゴを南側から包囲した形になったわけである。
マシニッサの後継者となったミキプサが紀元前118年に死去すると、3人の後継者が跡目を争うこととなった。即ち、アドヘルバルとヒエンプサル(1世)、ユグルタであり、紀元前112年までにユグルタは他の2人との争いに勝利して、ヌミディア王となった。
マウリヤ朝 いわゆる十六大国の中でも最も有力であったマガダ国ではナンダ朝が支配を確立していた。しかしナンダ朝はシュードラ(カーストの中で最下位)出身であったことからバラモン教の知識人たちによって忌避されていた。こうした状況下にあって、マガダ国出身の青年チャンドラグプタがナンダ朝に反旗を翻して挙兵した。これに対しナンダ朝は将軍バッサダーラを鎮圧に当たらせたが、チャンドラグプタはこれに完勝し、紀元前317年頃に首都パータリプトラを占領してナンダ朝の王ダナナンダを殺し新王朝を成立させた。これがマウリヤ朝である。 こうしてガンジス川流域の支配を確立したチャンドラグプタはインダス川方面の制圧に乗り出した。インダス川流域はマウリヤ朝の成立より前にマケドニアの英雄アレクサンドロス大王によって制圧されていたが、アレクサンドロスが紀元前323年に死去すると彼の任命した総督(サトラップ)達の支配するところとなっていた。 紀元前305年、ディアドコイ戦争の最中、アレクサンドロスの東方領土制圧を目指したセレウコス1世がインダス川流域にまで勢力を伸ばした。チャンドラグプタはその兵力を持ってセレウコス1世を圧倒して彼の侵入を排し、セレウコス朝に4州の支配権を認めさせてインダス川流域からバクトリア南部にいたる地域に勢力を拡大した。これが直接的な戦闘の結果であるのかセレウコス1世が戦わずしてマウリヤ朝の領域を認めたのかについては諸説あり判然としない。 紀元前293年頃チャンドラグプタが死ぬと、彼の息子ビンドゥサーラが王となり更なる拡大を志向した。ビンドゥサーラの治世は記録が乏しい。彼はデカン高原方面へ勢力を拡大したとする記録があるが、実際には既に制圧済みだった領内各地で発生した反乱を鎮圧する一環だったとする説もある。ビンドゥサーラの息子に史上名高いアショーカがいた。ビンドゥサーラはアショーカと不和であり、タクシラーで発生した反乱に際してアショーカに軍を与えずに鎮圧に向かわせたが、アショーカは現地の人心掌握に成功して反乱を収めたという伝説がある。 |